【フットサル文化の定着と確立にむけて】 フランスで目の当たりにした世界との差。そして、何よりも感じたのが観客として試合を見に来ていた国民のサッカーに対する意識の差であった。 アルゼンチン戦で負けた後、僕達はシャトルバスでスタジアムから駐車場へと向かった。そのシャトルバスの乗客はほとんど日本人でアルゼンチン人と思われる人たちはほんの数名だけだった。しかし、試合に勝ち喜びにあふれるアルゼンチン人は大喜びであった。これがもし逆の立場だったらとんでもないことである。大勢のアルゼンチンサポーターの中でほんの数名の日本人がはしゃいでいたらどうなっていることだろう。はっきりいってなめられている。そう感じた。そしてその場に居合わせた日本人達もその光景に悔しいと感じている雰囲気ではなかった。 環境の差 生ぬるい環境の中でサッカーをしてきた日本人たちが、毎日の生活の中で情熱を傾けている人々のサッカーに勝てるのだろうか?指導者にとっても同じである。選手を育てること、結果を出さなければ自分たちの生活ができないコーチとあくまでも他に仕事がある中でサッカーを教えるコーチとでは伝えられるものが違うのではないか? 環境を変えなければサッカーは変わらない。 そう感じた僕はあくまでも仕事としてサッカーの指導に携われる道を模索し始める。始めに僕は、某サッカー雑誌であるサッカースクールのアシスタント募集の記事を読み問い合わせてみた。そこで僕は面接の後、1ヶ月働くことになった。しかし僕はクビになる。理由はそこのヘッドコーチが俺にあわないからといわれた。どんなにいい選手だろうと監督の好みに合わなければ試合に使われない。それと同じ。ただそういわれクビになった。 いま思えばその言葉がなければ今の自分はないと思っている。このまま引き下がるわけには行かない。履歴書を持って片っ端からいろいろなスクールを回った。そして僕は広山さんに出会った。 広山さんのサッカー観をみたとき。僕は長年探していたものに出会えた気がした。サッカーに大切な遊び心、そして自由な発想の中にアイデアがあふれるプレーが生まれる。 そしてエスポルチに出会い、フットサルの世界に入っていく。いろいろな人に出会うようになった。僕は常に思う。サッカーに、フットサルに出会わなければいまの僕はなかった。はじめてサッカーを始めたとき。まさかここまでサッカーにすべてをかけるようになるとは思わなかった。 3年間僕はエスポルチでコーチとしていろいろな経験をした。そして縁があって僕は大磯に帰ってくることができた。予定では30になるまで帰らないつもりだった。でも自分ではチャンスだと思っている。 ワールドカップフランス大会が開催された年1998年1月、「地域を代表するクラブ」を目指して大磯サッカースポーツ少年団OB会を中心に「FC OISO」をつくった。それから1年後、会員全体のモラルと当クラブの理念を徹底させるために配った紙に次のような言葉を書いた。 現在は小さなクラブですが、ユベントス・バルセロナ・サントス・・・世界の名だたるビッククラブも始めは同じようなもの(小さな街のクラブ)だったと聞いています。 Think Globally、Act Locally 小さな町ですけど高い理念を掲げてこのクラブを発展させていきたい。老人から赤ちゃんまで、地域を結び付けていくようなクラブを作りたい。百年先も、「誰からも愛されるクラブでありたい」そう願います。 |